有田みかんの歴史

年数

歴史

1419

(応永26年)

「看聞後記」に「後崇光院から室町殿へ蜜柑2合を送られる」とあり蜜柑の名称が使われた最古の文書と言われる。
1429~1440年

(永享年間)

「糸鹿社由緒書」に「糸我荘に自生の橘があった」と記されている。
1521~1527年

(文永年間)

接ぎ木が始まり、蜜柑が増やし育てられる。
1529

(享禄2年)

都の貴人が紀州の蜜柑を京の土産物とした。(実隆公記)
1550

(天分19年)

京都本願寺十世証如上人が紀州行のおり、黒江で門徒より蜜柑25個献上された。
1574

(天正2年)

伊藤孫右衛門が肥後八代より蜜柑の苗木を持ち帰ったと伝えられる。(紀州蜜柑伝来記)
1580

(天正8年)

織田信長雑賀党の使者から蜜柑5籠を送られる。(信長黒印状)
1597~1614年

(慶長年間)

このころから大阪、堺、伏見へ蜜柑を積み出す。江戸日本橋河岸に青果市場が始まる(現、太田市場)。
1601

(慶長6年)

有田郡で蜜柑が栽培されていたことが記されている。(須谷村検地帳)
1619

(元和5年)

堺の商人が紀州富田浦から250石積みの船を借り受け江戸への海上交通を開く。
1634

(寛永11年)

滝川村の藤兵衛が初めて江戸に400籠の蜜柑を送ったと伝えられている。(紀州蜜柑伝来記)
1624~1643年

(寛永年間)

蜜柑の出版販売組織、蜜柑方が逐次生まれた。
1657

(明暦3年)

紀州候の威光を以て江戸の問屋から蜜柑代金を取り立てたと記されている。紀州蜜柑売買用地として公儀地面を借用する。(紀州蜜柑伝来記)
1685

(貞享2年)

紀伊国屋文左衛門、嵐をついて江戸に蜜柑を送ったと伝えられる。
1687

(貞享4年)

江戸蜜柑問屋9軒が指定され、組株は有田郡19組、海草郡4組とされる。

 

1698

(元禄11年)

紀州藩が「蜜柑御口銀」として蜜柑税を徴収。
1734

(享保19年)

紀伊国屋文左衛門死す。

中井甚兵衛、「紀州蜜柑伝来記」を記す。

1794

(寛政6年)

本居宣長、有田の蜜柑園を眺めて和歌を詠む。(鈴屋集)
1813

(文化10年)

有田郡温州ミカンの栽培が始まる。
1887

(明治20年)

有田郡の上山英一郎が北米に蜜柑を輸出。上山英一郎らは除虫菊を移植し、「蚊取り線香」の起源となる。
1890

(明治23年)

那賀、伊都郡の生産者30余人が「南陽社」を組織し、蜜柑1万6千箱を北米に輸出。
1913年~

(大正2年~)

田殿村大谷に有田郡農会園芸試験場完成、翌大正3年、県立農業試験場園芸部となる。

大正8年より5年の歳月をかけた紀勢鉄道敷設工事が、和歌山箕島間で開通、翌14年には紀伊宮原まで延長。蜜柑の出荷は海上輸送から陸上に変わり、時間も短縮される。